懐 笑 怒 泣 虚 酔 諸々

今まであったことはさみながら諸々書く中年おじさんにお付き合い頂ければ

どうなっていくか

今日、会社の上司に辞める意向を伝えました。色々とやっていかないといけない事、辞めてからの生活、考えていかないといけません。今、携わっている仕事もかなりしんどい状況です。

私の仕事に対するモチベーションが下がった状態がかなり影響して周りの人にも迷惑をかけています。この状態を続けていっても更に回り迷惑をかけていくと思います。

色々な事をリセットしたい状態です。この状態を続けたら多分生きる事を辞めてしまう事を考えそうです。

自分の生きる道、情け無い自分を少しでも普通にやっていける気持ちになる様進んでいきたいです。

自分の甘えがある事は感じています。ただ、死ぬ様な勇気もないし正直死にたくないんです。

甘い考えなのかもしれませんが今の仕事を辞めてリセットの一歩目にします。

これから。

昨日、心療内科に行ってきました。

先生からはまず、ちゃんとした睡眠を具体的に教えてもらいました。

私の現状を伝えもしました。

仕事についてはしんどそうと言う状態は伝わりましたが、決断するのは私次第と改めて

思いました。

嫁との関係も伝えました。私だけの要因ではないみたいです。

ただ、私の状況は一緒です。

これからどうするか。また、打ちます。

 

根無し草

久しぶりに書きます。

先日、家の者から離婚届を渡されました。

私の現状況を嫁から言うと親でも夫でもなくただの同居人であると。家族としてのあり方が何も見えないということの様です。

私は何か自分の上手くいかないと言う見えない思いや事から逃げる癖がついてその思いが態度や行動に出ているみたいです。

仕事の部分でも去年新しい会社に転職をして1年と少し経ちましたが、入った時点で任された業務の成績は全然上がらず新たに任された業務についても濁りきった泥水の中をただ闇雲に手と足をバタバタしているような状態です。

辞める事も考えています。

以前から仕事が上手くいかないとか、社内の人間の思いにムカついたり納得出来なかったりすることはありましたが、今回は特にひどく辛い状態です。自分で何か狭めてこの状態にしているのでしょう。ただ、辞めたいです。逃げたいです。

この情け無いネガティブな思いをどうおさめることが出来るか。わかりません。週末に心療内科に行く予定です。そこで何か解決に繋がるものが見つかればなあ。

家族とは一緒にいたい気持ちはすごくあります。ただ今の状態では妻や娘と向き合っていけない。私自身が何かポジティブに生きれるようになりたいです。

自分の人生を少しでも良い方に取り戻したいです。

自分の中身

私は自分で事を始め様とするのが凄く億劫な面倒くさがりな人間です。多分それは環境が変わったりする事に警戒心や臆病だからかもしれません。人に言われたらやっと始める。言われなきゃほっとく。

周りからしたらイラつく思いもあるのでしょう。

人ってこういうところ変われるのでしょうか?

また、書きます。

わたしとは

前回まで書いてきました通り私は幼い頃に両親ではなく、祖母とその姉の3人で生活をしていました。その訳は両親の離婚によるそうせざるを得ない生活だったのかと思います。のちに両親と生活を始めると以前に記載しましたがこの母親は私の継母です。色々あり両親共離れた場所に生活しており、現状疎遠な状況です。

最近、私の家族の中でも私の色々な固定観念のことからか、中々難しい事が大小あり頭を悩ませる日々を過ごしています。人が生きることって何か色々ありますね。

私の生い立ちに中に根付く考え方が家族でも元々他人な嫁には理解しがたい事だったり。嫁がストレスに思っている事が私からすれば何とも思わない内容だったり。

書いていても正直面倒でもあり、取り留めもない何だそれ?みたいな話にもなりそうですが

私自身を見つめて見つけることを進めていく作業のひとつとして書いていければと思います。

面倒くさくなりそうだけど。なら書かなきゃいいか。

また書きます。

 

昭和のあの頃

祖母たち3人で暮らしていた頃、食事は基本家での食事でした。ほとんどが和食がメイン。

白いごはんとお味噌汁に祖母自前のぬか漬け。

キャベツねぬか漬け好きだったなあ。

ほうれん草のおひたしに焼魚や肉屋さんで買ったコロッケなどなど。祖母たちは揚げ物は家ではしないで必ずお店の惣菜でした。後に親と住んだ時に揚げ物を家でするのを見た時、ちょっとしたカルチャーショックだったのを覚えています。

和菓子もたまに買ってくれました。みたらし団子やアンコの団子、茶まんじゅうと祖母たちが言っていた薄皮饅頭。あの店のアンコを食べてから私はアンコは今だにこし餡派です。

年に1回か2回位だったか行くのが、近所にあったデパートのお好み食堂か天ぷら屋さんでの天丼でした。

お好み食堂ではほぼの確率でお子様ランチ。
天ぷら屋さんでは100パーセント天丼でした。

たまに行くから外食の楽しみが増していた様に思います。あの頃の子供ながらにも食べたものの味の記憶は忘れられないものですね。

 

 

昭和のあの頃

前から書いている通り私は祖母たち3人で暮らしていました。

実の祖母は恐らく年金暮らしで働いていませんでしたが、祖母の姉は駅の売店で朝早くから午後の3時くらいまで働いていました。

私も何回か仕事に付いて行きました。朝のラッシュ時の祖母の姉のお客さんをさばく仕事っぷりは幼い時分ながらすごいなあと思った記憶があります。あと祖母の姉がお手洗いに行くタイミングで店番をしててくれと頼まれ、すごく緊張した記憶もあります。買いに来たお客さんは欲しい品物を取るとお金を置いて雑踏の中に消えて行ったような。

その頃含めた祖母の姉の手は働く人の手でした。週刊紙や新聞を沢山持ったせいか指の第2関節がボッコリ出て指を真っ直ぐ出来ない関節の形でした。私の手をあらためて見ると綺麗なものです。

書き始めると色々思い出すものですね。

また書きます。